アメリカのくそ医療保険に救われた話③
手術その1とNGチューブとの出会い
アメリカは日本と比べて入院日数が少ない。
例えば、自然分娩で出産した場合、母子共に健康な場合、2泊で退院。私が娘を産んだ日は満月のベイビーブーム日で、ベット数が足りなくなるくらい病棟がテンパっていたため、出産後24時間で家に帰った。
NYCに住んでいたので、生まれてから24時間しか経ってないピュアな生き物を、イエロータクシーに乗せて帰ったのだが、私たちの生きる空間がとても汚く、恐ろしいものに感じた。
私の胃がんの手術前夜も、日本では大抵前日とか2日前から入院だが、事前に渡される注意事項(何時以降は食べないなど)に自分で従い、指定された病棟へ次の日の朝行く。
セルフサービス感満載。
病院に到着してからは、術前の準備室に入り、数人の看護師や麻酔科のチームなどに色々質問されたり、点滴が入ったり。
そして夫にバイバイして手術室へ。
* * * * * * *
次に気づいた時には病室に戻っていた。
全身麻酔って不思議。
しばらくしてから主治医が部屋に入ってきて、
がんは内視鏡結果の見た目よりも深く、胃の筋層まで届いていたので、胃の半分と周りのリンパ節82個を切除した。
という報告を受けた。
リンパ節が胃の周りにどれだけあるのか知らないけど、82個という数にちょっとギョッとした。リンパ節そんなに取っちゃって大丈夫なの?と一瞬思ったが、いやいや、それより、こんな小さながんのために、胃の半分取らないといけないなんて、ホントがんって嫌なやつ。どれだけ態度でかいのっ。
そして主治医:「切除した胃見たいですか?」
私:「。。。」
私が戸惑っていると横から即座に
夫:「はい!」
と、見せてもらった写真は、この世のものではない奇妙な物体だった。
私の胃の手術は腹腔鏡手術といって、炭酸ガスを腹部に送り込み膨らませ、おへその下、水平に4か所(1.5cm)の穴を開け、そこからロボットの手をそれぞれの穴に入れて手術する。
さらに4箇所の穴の下に、5cm横線を切って、切り取った胃やリンパ節をそこから取り出す。
お腹に送り込まれたガスのせいで、私の胴体はムーミンの体みたいで、しかも肩周りに小さな気泡がたくさん。それがまた痛い! 温めると早く消えてくれると、ナースが教えてくれたので、電気毛布で肩を包む。
私の体どうなっちゃったんだろう、、、と不安になったが、手術ってこういうものだ、と自分を納得させた。
3泊入院した。ナースやドクターのチームが毎日何度も診察に来る。
手術前から医師やナースに何度も言われた「あなたは若いし、健康だからすぐに回復するわよ」という言葉に勇気をもらい、またこれが、自分の状況を過信しすぎる間違いを起こす原因ともなった。
退院後2日間はヒューストンにいてください、との指示で、病院隣接のホテルに2泊した。お腹は相変わらずムーミン状態だったが、それ以外はシャワーも出来るし、朝夕構わず人が出入りする病室ではないので、「これからだんだんよくなっていくんだ」と希望が沸いた。
オースティンに帰る朝、お腹の張りが前日よりもひどい気がしたので、念の為ナースにメッセージを送ったが、土曜日だからか返事はなかった(手術を担当した外科医は東京にカンファレンスに行っていて不在)。
一瞬「帰っても大丈夫なのかな」と不安になったが、「いや、私は若くて健康で、すぐに回復するはずだから、この膨張感も通る道なのだろう」とチェックアウトの準備を続けた。
1週間ぶりに子供達に会える。心配をかけているから、元気なところを見せたい。安心させたい。愛犬とゴロゴロしたい。自分のベットで寝たい。いち早くこのがんワールドから抜け出したい。こんな気持ちでいっぱいだった。
3時間の車の中で、私のお腹の膨張感は悪化していった。それでも状態が悪くなることを全く想像していなかった私は「トイレに行けば楽になるはず」と信じ、家につくまで耐えた。
家族が私の帰りを待って、家を掃除し、花なども用意してくれていた。
が、「おかえりーー!」とやっている状態ではなく、家族の笑顔を横目にトイレに駆け込む。
楽しみに待っていた子供達の顔が、ハイファイブ(ハイタッチ)をすっぽかされた時ような表情だった。
状態は改善されるどころか、車から降りて動き出したからか急激に悪化し始め、言葉では説明できない、感じたことのない圧迫感に上半身が襲われた。
呼吸が荒くなり、いよいよ「医師に連絡して」と体が悲鳴をあげたのを感じ、MD Andersonに連絡。状態を説明すると「近くの救急へまず行って、そこからまた電話をかけなさい」という指示。
楽しみに帰りを待っていた母の状態が、あまりにも想像していたものと違い、まだ現状についてきていない子供達の表情を、今でも忘れられない。
* * * * * * *
私の住んでいるエリアは病院がいくつもあるので、救急へは車で2分。土曜午後の救急室には、待っている人たちが数人いた。私はじっと待てる状態ではなく、座っていることもできないほど苦しくなっていた。冷や汗が出て、心臓がドキドキしている。
人前で取り乱したりしたことはこれが初めてだった。
“I can’t breathe! Please help me now!!” - 呼吸ができないです! 今すぐ助けてください!!
生まれて初めて命乞いをしたのだが、スタッフは「大袈裟なんじゃないの」という感じですぐに動いてくれない。
やっと中へ入ると、ナースが心電図を取るために体中に冷たいものを貼り出した。
「心臓じゃないんだけど!」
それでも救急へ行くとEKGをとるのはルーティーンなのか、私の訴えを無視して進めている。
ナース:「心電図は大丈夫そうね」
だからそう言っとるがな!
私がもがき苦しんでいるので、モルヒネを点滴された。それが入ってからやっと息ができるようになり、スキャンなどの検査をした。
しばらくすると、まさに「たった今手術終わりました!」という様子の、50代後半くらいの外科医がブルーのキャップを頭から外しながら、”I’m Dr. Askew. Nice to meet you.”と握手をしてきた。
彼は救急担当医から大体の状況を聞いている。その姿を見て夫に「私このドクター気に入った」と言った(後になって私がこう言ったのを、夫もはっきり覚えていた)。
こういう直感的な感覚はとても不思議。
そしてやっとMD Andersonの医師と、救急担当医、Dr. Askewが電話で繋がり、MD Andersonの医師がNGチューブ(経鼻胃管)を入れ、すぐにヒューストンに戻すように指示を出した。
「さっきヒューストンから帰ってきたばかりなのに、またかよ」とがっかりしている私を見て、
Dr. Askewは、「私も専門分野なので診てあげれるけど、MDAndersonが戻せ、と言っているので。でもMD Andersonだから心配ないですよ。」と言った。
ヒューストンに行かずに、ここでDr. Askewに診てもらいたかった。
Dr. Askewには奇跡的に、この数ヶ月後にまた会えることになる。
んで、NGチューブ。。。
もう一生お目にかかりたくない拷問チューブ、だけど多分このチューブのおかげで命拾いした。
「NGチューブ挿入」と指示された途端、さっきまでテキパキと動いていてくれたナースが戸惑ったように「え、私やったことない」と呟いた。
それを聞いた夫はイラっとした顔をする。
このナースが看護学校の実習か何かで習ったことを思い出しながら、「ここをこれに繋げて、えっと、これをセットして、、、」とやっている。
そしてチューブを結構強引に右の鼻の穴に突っ込んできて、目が飛び出そうになった。
通りがかりのいかにもベテランナースが見かねて、反対側の鼻の穴にゆっくり、、、私のからだの中の曲がり下りを、頭の中で想像しながら通している感じに見えた。
NGチューブを胃まで到達させる。喉を通るので、当然オエッとなる。
そしてその瞬間!
砂漠の湧水を掘り当てたように、NGチューブの先に繋がっている「1リットル」と書かれた容器にどんどんシュレック色の液体が溜まっていく。それと同時に、背中から圧力が抜けていき、苦しくて横になれなかったのが嘘みたいに、スーッと力が抜けてゆく。
感動している暇はなく、液体が容器の1リットルMax線にすごい勢いで向かっていく。
夫が焦ってナースを呼び、ナースは慌てて新しい容器に変えた。
その容器も間もなくいっぱいになり、ゴーストバスターズの映画で見たスライム怪物を彷彿させた。
後で知ったのだが、まだ縫い目の完治していない半分に切られた私の胃が、あれだけの量の胆汁(胆嚢から出る消化液)を貯めていたのは極めて危険で、あれが破裂していたら命も危ない状態になっていた、と。
NGチューブを鼻に入れたまま、移動用のベット乗せられ、私をヒューストンまで運ぶ医療用のバンに乗せられる。もうすでにミッドナイト近かった。3時間の距離をこの車でいくとなると、すごいお金がかかるんだろうなぁ。これどのくらい保険でカバーされるのかしら、、、とこんな時でさえ医療保険の心配をしないといけないのは、アメリカあるあるの話である。
車中で看護をする男の人が私の脇に座る。夫は自分の車で後ろからついてくる。
体からスライム怪獣も撃退したし、モルヒネもいい感じで効いていて、苦痛もなくなった私は車中ウトウトしていた。
だが突然車が路肩に入り、止まる。
運転していたお兄ちゃん:「車の冷却水が切れていて、警告サインがでたのでこれ以上運転出来ません」
そんなことある?これ患者や怪我人を運ぶ車だよね。冷却水をチェックしていなかったってこと?! ありえない。ここは発展途上国か、と、夫とメッセージのやり取り。
呆れ返っていた私は「こんな高速の路肩で待つより、夫の車で行った方が早いから夫の車で行きたい」と言ったがOKが出なかった。
45分以上待たされ、やっと来た別の車に乗り換える。
MDAの救急に着いたのは午前2時半とかだったと思う。
MDAの緊急病棟は昼間と変わりなく、皆バタバタしていた。