アメリカのくそ医療保険に救われた話②
私の母は、大事なところでは勇気ある行動にでれる人間だが、普段は繊細で小心者。
ある日、私が小学校から帰って来ると、テーブルの上に母が立っていた。母は面倒臭いほど行儀の良い人で、ダラっとしたところを1度も見たことがない。こたつでせんべいをボリボリかじりながら、アホなテレビを見て大笑いするようなどっしりおかんに憧れたものだ。
そんな母がテーブルの上にスリッパで立っている。
帰ってきた私を見るなり「あやちゃん!そこの電話帳の下にゴキブリがいるの!!! もしまだ生きていたら怖いからテーブルから降りれないのよ!ちゃんと死んでるか確認して捨ててくれる?」
私だってそんな電話帳の下を覗くのなんて恐ろしいけど、母親がこれだけ怖がっていると、自分が行動するしかない。
父はその反対で、どんな荒波が来てもどっしり冷静で落ち着いている。普段は冗談多い大阪のおっさんだが、怒らせるとゴッドファーザーみたいに怖い。
2024年1月11日の夜、私はヒューストン日本総領事館での新年会の帰りで、同じNPOの仲間数人と車に乗っていた。日本から1日ちょっと前に帰国したばかりで、3列シートの一番後ろで少しウトウトしていた。
父からLINE電話が入った。
「生検の結果なんやけど、、、先生から電話があって胃がんやって」
父の落ち着いた話し声にならい、父からの指示を聞き「うん、わかった。ありがとう。」と、心の中でトルネードが起こり始めているのとはウラハラに、落ち着いた返事をすることだけに意識を集中させていたのを覚えている。
与えられたショッキングな情報を、脳みそがプロセス出来ずに、ガタガタ音を鳴らしている。
声に出してみた。というかほぼ勝手に声に出ていた。「父から電話があって、私胃がんなんだって」
声に出したことで、ギシギシしてた脳みそに潤滑油が注がれたように、「ああ、日本で内視鏡して→医者が見つけた小さいデキモノを生検に出したところ→その結果が癌細胞だったから→医師がそれを伝えるために父に連絡し→父が私に電話してきた」と頭が理解した。
家族が寝静まっている家に着いたのは、夜の0時くらいだった。
深い眠りについている夫を見て、このトルネード情報を伝えるのは朝まで待とうと決めた。これから大変なことを乗り越えないといけないのは確かなので、しっかり睡眠はとっておいてほしい。
そして子供達のことを思った瞬間、恐怖で体がブルブルと芯から震えはじめて止まらない。あんな震え方をしたことは今までなかった。
カウンセリングの仕事で、ちょくちょく対応する消えたくて仕方がない精神状態のクライエント。彼らは話が出来る状況ではないので、あることをアドバイスする:
「体の前で腕をクロスして自分をギュッとしてください。そして今度はゆっくり呼吸をしながらトントンしてください。」
これをベット横の床にしゃがみ込んでやっていた。トントン、トントン、大丈夫。どうにかなる。
一人で抱え込む「がん告知」はどこまでも孤独で、どこまでも暗く、どこまでも寒かった。
朝5時までやっとの思いで耐えて、夫を起こして伝えた。急に起こされて、彼の脳もプロセスに時間がかかっていたが、一言目に
“We will get through this together.” 「一緒に乗り越えよう」 とハグ。
堪えていた涙が溢れ出し、20年以上の結婚生活、大変なことも多かったけど、朝一に急に起こされても、一言目にこの言葉が出てくる関係に感謝した。
そこから2人でベットの上にパソコンを持ち出し、病院探しが始まった。
テキサス州に住んでいるとがんと言えばヒューストンにあるMD Anderson Cancer Center (以下MDA)だ。著名人もがんの治療に来る、全米No.1の癌センター。私の住む街から車で約3時間のヒューストンにある「ド」がつくデカい癌センター。他州や海外から来る患者も多いため、隣接のホテルやレストランまであり、規模的には小さい街みたい。
今までも「あの人XXがんの治療で、MD Andersonに行っているのよね」というような会話を何度も聞いたことがあるし、とにかく難しい手術や、末期癌患者でもMDAに行けばなんとかなる、という信仰に近いものがある。
地元オースティンの病院ではなく、MDAを第一希望にした理由は、日本は胃がん患者数が多いが(世界一だと言われている)、アメリカでは稀だから。私のがんを発見してくれた日本の先生も「胃がんの手術は日本でするのをお勧めします」と言っていた。国民健康保険がないし、子供達も夫もいない日本で手術+治療をするのは色々と無理があるので、日本でするのは諦めても、MDAだったらなんせ一番なんだから、私のがんをやっつけてくれるでしょう!と、夫と意見が一致。
その週アメリカは3連休で月曜日もホリデーだったため、病院から返事の連絡がくるのに時間がかかるだろうと予測しながらオンラインでの申請フォームを送った(土曜日)。
が、なんと月曜日(休日なのに)に電話が来て、早速その週の金曜日、1月19日に予約を入れてくれた。19日の予約は、書類にサインと血液検査、3日後の22日と23日にはCTスキャン、胃カメラ、そして主治医に会い、手術日が1週間後の1/29に決まった。
どんどん病院予約が入っていき、それに合わせて夫も私も自分たちの生活を整えていく作業に追われた。
私の検査結果が日本からのものだったからか、MDAは日本人の主治医をあてがってくれた。私の両親は2人とも未だに手術や入院をしたことがないし、私自身も重い病気になったことがないので、体の仕組みや薬の名前、とにかく病気に対しての私の知識はかなり低レベルなこと間違いなし。日本語でも英語でも未知の世界なのは間違いなし。
ただ、日本での内視鏡の先生に「手術は日本ですることをお勧めします」と言われたことが引っかかっていたので、日本人ドクターで安心したし、大規模なcancer centerなのに、日本人のドクターをアサインしてくれるなんて、気が利くなぁと感心した。
さて、家族、近所の人たち、近い友人たちにも現状を伝える必要があった。
先ず、私の母。そう、あの怖がりな母。私は物心がついた頃から母に心配させるのがとても嫌だった。でも今回は長い間入院で夫と共にヒューストンに行くため、母のサポートが必要になる。
私の母はうちから車で30分くらいのところに住んでいる。両親は晩年離婚し、母はテキサス、父は大阪にいる。母方の家族は国際的で、私以外に従兄弟3人アメリカに住んでいるので、海外で暮らすことにそんなに抵抗がない家族だ。
母に伝えるのに勇気がいった。自分の子供に「私がんで手術しないといけないの」って言われたら、どんなに苦しいか簡単に想像できる。
ありがたい事に、落ち着いて話を聞いてくれて、「なんでもするから」「私はもう良いけど、あなたは子供達がいるからまだ死んじゃダメよ」と言った。ここは流石母親。私が心配してることと同じ。
いよいよ今度は子供達にがんのことを伝える。
娘は高校3年生(アメリカでは高校は4年間)で、受験に向けてとても大事な年。息子は高校1年生。なるべく心配をかけたくなかったので、治療方針がわかってから伝えようと夫と決めていた。
子供達を居間に呼び、今までの過程と、手術をしてみないとがんが実際にどれくらい進んでいるかなど、細かいことは分からないことも含めて話した。
娘は目に涙をためながらも「心配だけど、私は手術が終わって、色々分かるまで余計な心配したりしないから」自分に言い聞かせるように、彼女らしい強さで言っていた。
息子は静かにずっと泣いていた。心が締め付けられる。
2人とも体は私よりも大きいけど、子供達の悲しみが、自分のがんよりもずっとずっと辛い。
私はこの子たちのために、生きないといけない、生きたい。
子供を持つことで一番怖いこと。。。自分の命よりも大切な存在ができること。
手術の2、3日前に犬の散歩をしていると、驚いたことにドクターの携帯から電話がかかってきて、簡単な手術の説明を受け、「私の患者さんはもっと遅いステージのがんの方が多いし、Ayaさんは若くて健康なのですぐに回復しますよ!」と言ってくれた。
この言葉に、緊張で体中固くなっていたのが一気に緩むのを感じた。
なかなか手術の話まで辿りつきませんが、それは次回のPart3で(つづく)。