〈最終編〉アメリカのくそ医療保険に救われた話④
手術その2+2(カテーテル) +手術その3
夜中に運ばれて来たMDAの救急病棟では、どんな検査をしたかとか、疲れ切っていてあまり記憶がない。
覚えているのは次の日に、「主治医が不在の間、私、Dr.Kimがあなたを担当します」と握手をしてきた。
背が高く、肉づきもよく、がっつりと力強い握手。
そして次の言葉に私も夫も愕然となる。
「どうやら切除した胃と腸の繋ぎ合わせのところが、捻れて何も通らない状態になっています。残念ですが、再度手術して捻れを直す必要があります。今回は腹腔鏡手術では無理なので、回復手術になるため、術後の回復にも時間がかかります」
私は顔を手で覆って泣いた。
こんなことある? 不満と不安をDr.Kimに伝えたが、「I’m sorry. でも回復するまでに一つ障害が増えただけ。乗り越えるしかないよ。大丈夫、あなたは若くて健康だから。」という返事。
いい加減「あなたは若くて健康だから」にも嫌気がさしてきた。
胃がん宣告を受け、手術の必要があると知った時から、これからしばらく辛い思いをする、と覚悟はしていたけど、それは予定していた手術一つとその回復分で、それ以上の忍耐力とエネルギーは準備してなかった。
2回目の手術をした。
ロボットの細い腕での手術ではなく、Dr.Kimの力強い手が入った跡がある。へそ上にがっつり7cmの縦傷。
この手術後一番心待ちにしていたのは、拷問のようなNGチューブが取れること。
このチューブは結構太く、鼻の奥を通って喉のオエッとなる部分を常に刺激している。そのため常に唾液が大量に出て苦しくなり、30分以上続けて眠れない。
人は睡眠不足が続くと、精神状態がうつ状態になる。手術が終わった時点ですでにチューブを入れて丸3日経っているのに、Dr.Kimは「あと数日チューブをこのままにします。胃と腸のつなぎ目のところが再度捻れないように、手術中にさらに深く差し込んでおきました」と。
頭がおかしくなりそうだった。
今回の手術は開腹手術だったため、傷も痛かった。出来ることならずっとベットの中で丸まって、どこにも行きたくないし、誰とも話したくなかった。それでも回復を促すために、「廊下を歩きますよ」とナースに言われる。歩くことがこんなに辛いなんて。。。
こうして2度目の手術・入院が終わり、辛い遠回りだったけど再度家に帰る。
* * * * * *
数日後、最初にやった胃がんの手術の病理検査結果を聞くために、東京から帰ってきた主治医とのオンライン検診。
主治医:「私がいない間に大変なことになって本当に申し訳なかったです」と謝ってきた。
アメリカでドクターが謝ることはまずないので、少し新鮮だったし、主治医は私のことを本当に心配してくれている、と感じた。
主治医から伝えられた病理検査結果は、がんが近くのリンパ節2つに転移していた。がんの深さは固有筋層まで。ステージIIA。
リンパ節にがんが見つかり、ステージIIの胃がん患者には、術後の微小遺残腫瘍による再発予防のための補助化学療法(キモセラピー)が勧められる。しかも半年間。
でた、あの恐ろしい化学療法。がん=化学療法で髪の毛が抜けて、血の気が引いた皮膚の色になるやつ。
ショックすぎる。
これから回復に集中するぞーと思っていたのに、、、。
この情報を理解し、受け入れ、また前に進んでいくエネルギーを貯めるのに時間がかかった。
その後の回復は、まあまあといった感じ。どんな痛みが普通なのか、相変わらずのお腹の膨張感も回復の一部なのか。。。四六時中からだの状態を気にしながら、日々を過ごしていた。それでも元々体力がある方なので、1ヶ月の間に少しずつ普通の生活に戻れるようになってきていた。
* * * * * *
退院から約1ヶ月後に、最初の術後からの経過と化学療法専門医に合う予約のために再びMDAへ。
主治医との予約が朝イチだったため、前日からヒューストン入り。
なぜか、夕飯が終わった頃からだんだんと体の調子がおかしくなってきた。早めに寝ようとしたが、夜中には吐いたりでトイレに何度も駆け込む。
これってもしかしてMDAへの強烈な拒否反応?!PTSD?かとも思った。
元々次の朝に主治医との予約があるので、とりあえず夜を乗り越えた。
血液検査の結果を見た主治医の顔から笑顔が消えた。白血球が危ない数値らしい。
すぐにCTスキャンした方がいいから、とまた救急病棟へ送られ、CTスキャンする。
結果。。。
「胆嚢が炎症を起こしているので、炎症を抑えたあと、胆嚢を取る手術をする必要があります」
夫が青ざめた。言葉を失っている。
私は本気で「これは悪い夢?」と現実を疑った。
手術の前にまず、感染を治すことが優先。
体の右側から胆嚢に針を差し込み、カテーテル(管)を入れ、感染している胆嚢液を出すことになった。
私は痛みに強い方だと思うが、これが本当に痛く、自分でもよく分からない声が出て、ナースが「痛みどめを増やします!」と少し焦った。
もちろん局部麻酔をするのだが、ドクターが超音波で場所を確認しながら、針をズルズルと手で皮膚を押しながら胆嚢まで導いていく。今思い出しただけでも、タイプする指先に力が入らなくなるくらい痛かった。
胆嚢から管が通され、体の右側面から透明の管が出ていて、縫って皮膚に固定されている。
2回の手術の傷と、管が横から出てその先にパウチがぶら下がっている私のからだは、、、とにかく惨めなものだった。
パウチに溜まった液体の色は茶褐色で、かなり毒々しいことが、医療を知らない私でも見てわかった。
なんでこんなことになったのか、、、
胃切除の手術をした患者は、5%くらいの確立で胆嚢炎にかかる、という説明を受けた。その感染細菌はクレブシエラ・ニューモニエというもので、院内感染することも多く、厄介なことに抗生剤に耐性を持つ場合もある。
そこで入院最初の2日間は、私の部屋に入ってくるナースが完全防備服を身につけ、部屋を出る際にそれをいちいち捨てる、というなんとも異様な状態だった。
「災難の上に、また災難です」と主治医が言っていた。
すでに体が弱っている状態なのに、細菌を退治するために、2種類の強い抗生物質を投与された私の体は本当にボロボロで、微熱も続き、疲れ切っていた。
入院中は毎朝5時に血液検査の人が来て、夜中構わずバイタルを取られたり、点滴のベルが鳴ったり、レントゲンのマシンを持ってきて撮られたり、と寝ていられない。
朝5時の血液検査の人たちを、私と夫はバンパイヤと呼ぶようになった🧟♂️🧟♀️
このままこうして弱っていく体にどんどん合併症が重なり、体力も生きる気力も尽きて死んでしまうのかな。。。
死んだ方が楽かも。。。という暗い考えもちらほらするようになっていた。がんが見つかる前はあんなにピンピンしていたのに。こんな目に遭うなら、見つからなかった方が良かった。体力もそうだが、精神状態が限界に来ていた。
カテーテルのパウチに溜まる液体の色が、怒り色から優しいピンク色になってきた。
だが、私の心拍数は安静時で100/分を超えているし、白血球の数値も下がったものの、まだ高い。
もう一度スキャンをとらされる。CTスキャンを取り終わったのが夜9時過ぎだったが、結果が出るのを主治医は待っていてくれて、10時過ぎに連絡があった。
「胆嚢の炎症は落ち着きましたが、腹膜に炎症があるようです。腹水には抗生物質が届きにくく、効かないことがあるので、ここにもカテーテルを刺して、抜いてしまった方がいいでしょう」
またカテーテル。。。今度は左下腹部。
今回のカテーテル挿入はそんなに痛くなかったのだが、体の左側面からすでに管が出て、パウチがくっついている(太ももにしばってある)ところこに、もう一つカテーテルが入り、パウチをぶら下げることになった。
この時点で私は、人間としての尊厳を失った。
家に戻ってからも、2つのカテーテルの世話(溜まったら出し、ガーゼを替え消毒し、医療用の食塩水を注射器で挿入する)があり、抗生物質や痛み止めやらで寝室が病室のようになった。
寝ている間に動いて、カテーテルを止めている縫い目などが切れたりしたら怖いので、体を固定するために妊婦さん用のボディーピローで体を固定して寝た。
毎朝目が覚める度に、痛みを確認し、見た目も惨めな現実にうんざり。
2週間後MDAに戻り、腹水の方のカテーテルは取り外してもらえることになった。
次は、体力をもう少し戻して、胆嚢を取る手術に備える、ということだった。
その間に、化学療法のドクターのチームとのやり取りがあり、「学会であなたの’稀なケース’を相談したところ、補助化学療法は、術後6週間以内にスタートすることが推奨されていて、続く合併症のせいで時間も経過しているし、化学療法が出来る体の状態ではないので、化学療法は取り消しになりました」という連絡が来た。
再発を防ぐための化学療法なので、しなかったら再発する可能性が高くなる、という理解はあるが、これで化学療法したら本当に殺される、と体で感じていたので、とりあえずしなくて済んで良かった。髪の毛も抜けないで済むし。
* * * * * *
消化器系がどうもちゃんと機能していないので、主治医はかなりの癒着も起こっていると予想していた。胆嚢摘出の際に、癒着も対処すことになると説明を受け、3度目の手術日が4月29日に決定。
主治医:「なるべく 腹腔鏡手術で、最初に行った手術の際に使った同じ傷を使って手術をするのが理想ですが、癒着の程度によっては、また開腹手術になる可能性もあります」
悪いことばかり起こっているので、きっとまたがっつり開腹手術になって、そのせいで新たに癒着もひどくなったりするんだろう、と心苦しくなった。
手術が終わった。麻酔から覚めて最初に確認したのは、お腹の傷。腹腔鏡手術だった!
この試練が始まってから初めてのいいニュース。しかも、ここは日本人ドクターの職人技か、1回目の傷から1ミリのズレも見られない。全く同じところをキレイに切ってくれた。
退院してからの1か月は毎日たくさんの痛みと、たくさんの不安との戦いだった。
生まれて初めて、本気のパニックアタックにも襲われ、救急車を呼ぶ寸前まで行ったこともあった。
夜中に痛み始め、腕に感覚がなくなったように感じた瞬間に、救急病院での恐ろしい経験にバァーッと身を包まれ、息が出来なくなって焦り、すごい量の汗が出た。
処方されていた強い痛み止めを飲み落ち着いたのだが。
これ以上家族に迷惑かけれない、かけたくない、という気持ちでいっぱいだった。
からだはゆっくりだけど、少しずつ回復していくが、精神的にもやられていることに気付かされた。
そんな時、暗い穴にハマっている私に、手を差し伸べてくれる小さなミラクルが!
救急病院に駆け込んだ日に、たまたま手術をしていてその後駆けつけてきてくれた、Dr.Askew(前回のブログに登場)。
私のがん&合併症騒動の間に、夫はヘルニアになっていた。そして紹介されたヘルニア手術のドクターが、なんとたまたまDr.Askewだった。
私の住む街、オースティンは、テキサス州の首都で、全米で10番の大きさの都市だ。大病院もたくさんある。その中でDr.Askewが夫のヘルニア手術をすることになったのは、どのくらいの確立なのか。
夫のヘルニア手術は簡単な手術で、入院もなかった。「術後1週間の検診の時に、Ayaも一緒に来ればいいよ」と夫が言ってくれたので、まだ色々な方面で苦しんでいた私は、夫の検診について行った。
Dr.Askewの顔をみた瞬間、『こんなにまだ色々ボロボロなんですが、私本当に大丈夫なんでしょうか」と聞いた。
Dr.Askew:「高いビルとビルの間を綱渡りする人がいるでしょ」と話し始めた。
「あの綱渡りの人たちは下を見ない。前をまっすぐ見て進む。なんでか分かる? 下を見ると実際どれだけ高くて怖いか知ってしまうから。今まで健康だったあなたは、下を見たことがなかった。でも今回の辛い経験で、どれだけ怖いことがたくさんあるのか知ってしまった。短い期間に3度も手術の経験をしたら、下ばっかり見ちゃって、体も心も恐怖と不安でいっぱいなのは当然。ゆっくり良くなっていくから、焦らないで大丈夫。だんだんとまた前を見て進めるようになるから。」
この言葉に、夫の検診を完全に乗っ取ったことにも気づかず、私はボロボロ泣いていた。
Dr.Askewはティッシュの箱を渡してくれた。まるでセラピーに来たみたい。
雑貨屋さんで見た、Taylor Swift聖人のキャンドルみたいに、「Dr.Askewの聖人キャンドルが欲しい」と帰りに夫に言った。
* * * * * *
続く不運に埋もれて忘れかけていたけど、アメリカの医療保険がくそだったからこそ、と日本で検診を受けることを決め、胃カメラを後付けしたことで、胃がんを早期発見出来たことは、本当に本当にラッキー。
たくさんアンラッキーがあったけど、小さなラッキーのかけらが集まって今の私がいる。
ながーくなったけど、タイトルで書きたかったことがコレです。
Let the healing begin…
明日は胃がんの手術からの1年アニバーサリー。
数ヶ月前はお見舞いにお友達が来て、肋骨が見えるような痩せ方をしている私の姿を見て、泣かれちゃったりもしたことがあったけど、今では「あんたほんまに胃がんしたんかい」っていうくらい元気になりました。
このままこの経験に埋もれるのも悔しいから、ボクササイズのジムにも6月から戻って、今では腹筋が割れてるくらい筋肉もついた💪🏼
でも、、、とても健康に見えるけど、実はまだ色々調整中。
少しでも調子がおかしいと、反射的に「なんでまだ前みたいに戻ってないの?!まだどっか悪い?」となる。
そして3ヶ月に1度のMD Andersonでの検査もいちいち怖い。またがんだったらどうしよう。。。
そんな時、「いずみの会」というがんサバイバーのための団体のページで、こんな内容のメッセージを見つけた。
「がんの手術というたいそうなことをしているのに、特に若い人は、手術前の状態に戻ろうと必死になる。でもそれは現実的ではない目標。どこかを取ったり、切ったりしたら、もう以前の体ではない。新しい状態に、新しい自分に慣れていくことを目標にするべき。」
最後に、
ここでは書ききれないボリュームの、たくさんのサポートをたくさんの人から貰い、沈みそうな時もみんなに支えてもらって溺れずにここまで回復できました。
今回このブログを書くために、今まで辛くて見れなかった闘病中の写真を見て日付を確認したり、自分の症状や化学療法のことをググったり出来るようになりました。
あ、医療系の映画やドラマが観れなかったけど、今は観れますw
このお陰でまた一歩、いや、もう何歩か前進できました。
人生は綱渡りだったんですね。。。